MENU

『朱子学と陽明学』書評 – 3度目の正直で見えてきた東洋思想の真髄【徹底再読記】

スポンサーリンク
目次

二つの思想の違いを分かりやすく図解 📊

朱子学:外に向かう学問(外→内)

外の世界の「理」を研究 → 知識として理解 → 内面に取り込む → 実践

「格物致知」(物の理を究めて知識を完成させる)

本文によると、朱熹は「格物」について次のように説明しています:

格物というのは、格とは尽くすということで、ものごとの理を窮め尽くす必要があるんだ。二、三割を窮めただけでは、まだ格物ではない。十割窮め尽くしてはじめて格物と言えるんだ。」

陽明学:内に向かう学問(内→外)

内なる「良知」を信じる → 直接行動 → 実践の中で学ぶ

「致良知」(良心を最大限に発揮する)

王陽明格物について全く違う解釈をしています:

格物は、『孟子』の『大人は君心を格す』の『格』と同じで、心の不正を取り去り本来具えている正しさを回復することだ。」

この図を見れば、なぜ朱子学が「体制教学」と呼ばれ、陽明学が「行動の学問」と言われるのかが分かりますね。 📈

日本への影響:なぜ江戸で朱子学、明治で陽明学? 🇯🇵

江戸時代:朱子学の時代

江戸幕府は朱子学を「官学」として採用しました。

なぜか?

それは朱子学の「階層的秩序」という考え方が、封建社会にぴったりだったからです。

朱子学では「まず自分を修めてから、人を治める」という段階的なアプローチを重視します。

これは「まず武士が学問を身につけ、その後で庶民を指導する」という江戸時代の社会構造と相性が良かったんです。

ただし、著者が重要な指摘をしています:

「江戸幕府がそれを承知して最初から朱子学を官学と認定していたわけでは決してない。幕府当局者の間でも、林羅山が説く学説はほとんど理解されていなかった。」

これは後世から振り返って作られた「物語」の側面があるというわけです。

明治維新:陽明学の躍動

ところが幕末になると、陽明学が注目されます。

陽明学の「知行合一」(知識と行動は一体である)という考え方が、「とにかく行動を起こそう」という維新志士たちの気質と合ったんですね。

大塩平八郎の乱や、吉田松陰西郷隆盛といった人たちが陽明学に影響を受けていたのは有名な話です。

**「理屈はいい、まず行動だ!」**という陽明学的な精神が、明治維新の原動力になったと言われています。

でも、著者は面白い指摘をしています。

日本の陽明学は本場中国のものとはかなり異なる発展を遂げました:

「中国では陽明学も政治的・社会的な秩序構想を持っていましたが、日本では個人の内面的修養に偏った理解がなされました。これは日本の社会構造(世襲身分制度)が影響しています。」

個人が政治に参画する機会が最初から閉ざされていたため、必然的に内面化された解釈になったんです。

著者の鋭い指摘:通説を覆す新視点 ⚔️

通説への挑戦

この本の面白いところは、著者の小島さんが通説をバッサバッサと切っていくところです。例えば:

  • 「朱子学は体制派、陽明学は反体制派」 → 実はそんな単純な話じゃない
  • 「陽明学は民衆的」 → 実際は王陽明自身がエリート中のエリート
  • 「朱子学は堅い、陽明学は自由」 → どちらも社会秩序を重視していた

特に「陽明学は民衆的」という通説への批判は鋭いです。

本文で明らかにされているように、王陽明門下の庶民学王艮(おうこん)でさえ、若いときに「自分が天下を支えている夢を見て汗びっしょりになった」と告白しています。

これは意識としては范仲淹や張載とまったく同じです。😅

**范仲淹(はんちゅうえん)張載(ちょうさい)**も、どちらも宋の時代(11世紀)超真面目な思想家です。

范仲淹の名言:「天下の人より先に心配し、天下の人より後で喜ぶ
張載の名言:「天地のために心を立て、民のために道を開く

要するに、どちらも「俺が世界を救わねば!」という熱血漢だったんです🔥

王艮も若い頃、「自分が天下を支えている夢」を見て汗だくで目覚めたと告白。

つまり彼も同じ「世界を背負う系男子」だったということ。

庶民出身の王艮でさえこんな壮大な使命感を持っていたので、「陽明学は民衆的で気楽な思想」という通説は怪しいよ、と著者は指摘しているわけです。

みんな根本的には「天下国家を何とかしたい!」という熱い想いは同じだったんですね🌟

「朱子学は成り上がりの見栄、陽明学は放蕩息子の道楽」

著者の最もスパイシーな表現がこれです!😂
いやぁ、これには思わずコーヒー噴きそうになりました。

本文によると:
朱熹:地方の下級公務員の息子→「絶対エリートになってやる!」と猛勉強した苦労人タイプ
王陽明:生まれながらの名門ボンボン→「親の敷いたレールなんてつまんない」と好き勝手やった二世タイプ

「極端な言い方をすれば、初発の時点では、朱子学は成り上がりの見栄、陽明学は放蕩息子の道楽だったのである。」

この出自の違いが思想の性格に影響してるって指摘、まさに「なるほど!」でした🎯

従来の「朱子学=お堅い保守派、陽明学=革新的リベラル」という図式とは真逆の構図じゃないですか!

現代で言えば、ガリ勉して東大入った人 vs 慶應幼稚舎からエスカレーターの人、みたいな?😅

どちらにしても、小島(筆者)さん皮肉ってますねー。

現代への応用:古典思想の生きた知恵 💻

朱子学的アプローチの現代的価値

現代社会でも朱子学的なアプローチは有効です。例えば:

  • 研究や学習:まずは基礎知識をしっかり身につけてから応用に進む
  • 組織運営:システムや制度を整備してから運用する
  • 問題解決:データを収集・分析してから対策を立てる

これらは朱子学の「格物致知」の現代版とも言えますね。

陽明学的アプローチの現代的価値

一方、陽明学的なアプローチも重要です:

  • 創業やイノベーション:完璧な計画を待たずに、まず行動を起こす
  • 人間関係:理論より感情や直感を大切にする
  • 危機対応:状況に応じて柔軟に判断する

これらは陽明学の「知行合一」の現代版。

実際には、現代社会では朱子学的アプローチと陽明学的アプローチの両方が必要ですよね。

状況に応じて使い分けることが大切ってこと。

満街聖人:現代的な意味

本文で紹介されている満街聖人」(街の人がみな聖人に見える)という陽明学の考え方。

「まんがい聖人」って、なんだか「漫画異星人(まんが異星人)」みたいで親しみやすい響きですよね😄

でもこれ、実は現代のダイバーシティ人間尊重の思想にドンピシャ!

コンビニの店員さんも、電車で隣に座ってるサラリーマンも、それぞれに価値がある存在なんだよ、という陽明学の洞察。

500年前の思想が、令和の多様性社会にピッタリはまるって、ちょっと感動しませんか?

くれぐれも、町ですれ違う人が「漫画の異星人」だなんて覚えないでくださいね。
満街聖人』です。

読んでみて感じたこと:3度目の発見 ✨

3度目の正直

正直に言うと、1回目、2回目は「なんとなく分かった気」になっていました。

でも今回、「朱子学って何?陽明学って何?」という基本的な疑問を持って読み返してみると、全然違って見えたんです。

やっぱり、明確な問題意識を持って読むのと、なんとなく読むのとでは、理解の深さが全然違いますね。

読書百遍 意おのずから通ず

あ、あと97回読まないとダメかな。

「考えるヒント」として

著者が言うように、この本は確かに「考えるヒント」をくれます。

現代の私たちも、結局は朱子学的アプローチと陽明学的アプローチのどちらかを使って物事を考えていることが多いんです。

例えば、仕事で新しいスキルを身につける時:

  • まずは理論をしっかり学んでから実践する(朱子学的)
  • とりあえずやってみながら覚える(陽明学的)

どちらが良いかは状況によりますが、この二つのアプローチがあることを意識できるようになったのは大きな収穫でした。

現代の情報過多時代との類似性

著者が指摘する興味深い点があります:

「朱子学・陽明学の時代は『印刷出版文化の時代』だった。情報が大量に流通し始めた時代に、人々はどう知識と向き合うべきかを考えた。」

これって、まさに現代のインターネット時代と同じ課題ですよね。

情報過多の時代に、私たちはどう学び、どう行動すべきなのか。

800年前の中国の思想家たちが悩んだ問題と、本質的には同じなんだと気づき、ちょっとほっこり。

1 2 3
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次